要 旨
摘 要
はじめに
1先行研究
1.1『红楼梦』の花についての研究
1.2『源氏物语』の花についての研究
1.3 研究の目的と意义
2 二名着から登场する美人を花に譬える例とその原因
2.1美人を花に譬える例
2.2その原因
3 二名着における美人を花に譬える例の相违点とその原因
3.1相违点
3.2その原因
おわりに
参考文献
谢 辞
以下是论文正文
要旨
中国の文学作品であろうと、日本の文学作品であろうと、「美人を名花に譬え」という描写法はよくみられる.『红楼梦』は「中国四代名着」の一つとされて、中国小説史上で最高の作品と言われる.『源氏物语』は世界で最古の长编写実小説として、よく日本の『红楼梦』といわれ、世界文学史上も大切な地位を持っている.
そして、この二名着は同じに様々な美しい女性を描き出した.そこから「美人を名花に譬え」という特徴をまとめられる.本稿は「美人を名花に譬え」という现象で、例の比较を通して、共通点と相违点を探り出したい.共通点から、中国も日本も花に同様な审美観を持っている原因を表明したい.そして、共通点の里に隠した相违点の原因を分析したい.
キーワード:源氏物语、红楼梦、美人、名花
摘要
中日两国都有"名花喻美人"的习惯,特别是文学作品中多有出现.《红楼梦》是我国四大名着之一,是中国小说史上的巅峰之作.《源氏物语》是世界上最早的长篇写实小说,被称为日本的《红楼梦》,在世界文学史上占有相当重要的地位.
这两部世界文学巨着,都描绘出了姿态万千的绝色女子,而且两部作品中有一个共同的特征--名花美人互喻.本文将通过对名着中"名花喻美人"的实例进行比较,分析存在这一共同现象的原因.同时基于这一共性来分析其差异性,进而揭示这一现象体现出的文化差异,并对其原因进行考察.
关键词:源氏物语,红楼梦,名花,美人
はじめに
中国の文学作品であろうと、日本の文学作品であろうと、「美人を名花に譬え」という描写法はよくみられる.确かに、花と女性は违う分野での美の化身で、「美」は花と女性の共通点である.しかし、美人を名花に譬える原因はただそこにとどまるのか?ほかに何かの原因が隠したのか?そして、同様な文学现象であっても、中国と日本のはどんな违うところがあるのか?どんな文化伝统と文学伝统によって、そんな违いを招いたのか?したがって、中国と日本の小説を比较して、以上の问题を研究しようと思う.
『源氏物语』は物语としての虚构の秀逸、心理描写の巧みさ、筋立ての巧致、あるいはその文章の美と美意识の鋭さから日本文学史上最高の杰作とされる.「世界最古の长篇小説」という评価もある.『红楼梦』は「中国四大名着」の一つとされて、中国小説史上で最高の杰作と言われる.毛沢东も爱読し、『红楼梦』を中国封建社会の百科辞典と称されている.中国芸术研究院副院长张庆善の话でいえば、世界文学史上、『红楼梦』ほど世界でそんなに広い影响を与えた小説はなかったという.
『源氏物语』であれ、『红楼梦』であれ、世界文学史で大切な地位を持っており、それぞれ日本と中国の代表作である.二つの作品もそれぞれの国でもっとも典型的な小説で、既に形成された文化伝统や文学伝统も克明に记された.ですから、「美人を花に譬え」という现象をこの二つの名着において研究すれば、もっとも権威のある结论をまとめられると思っている.したがって、『源氏物语』と『红楼梦』という二名着を选んだ.本稿は『源氏物语』と『红楼梦』における、「美人を名花に譬え」という现象で、例の比较を通して、共通点と相违点を探り出したい.共通点から、中国も日本も花にどんな审美観を持っている原因を表明したい.そして、共通点の里に隠した相违点の原因を分析したい.
1 先行研究
1.1『红楼梦』の花についての研究
现在、国内外でも『红楼梦』と『源氏物语』に関しての着书と论文が多い.そして、「美人を花に譬え」という现象においての论文と着作も少なくない.国内では、北京语言大学汉语学院の周思源は「论红楼梦の芸术魅力」という论文で、『红楼梦』での象徴性が人物の运命や环境などに托して表现しただけではなく、建物や器物や草花や诗の签などの细かいところまでによって表现してきた.また、『红楼梦の创作方法论』という着书で、象徴性を表すためによく物象符号系统を用いた.花もその中で大切な物象であるという.『红楼梦』を研究する専门家の周汝昌は『红楼梦の芸术魅力』と『红楼小讲』でそう述べた.曹雪芹が花を托して『红楼梦』の女性イメージを作り、女性の结末もそれによって暗示された.さらに、『红楼梦』は新しくて独特な『群花谱』と见なされる.
国外では、日本学者の伊藤漱平の《『红楼梦』に於ける象徴としての芙蓉と莲と-林黛玉、晴ブン并びに香菱の场合》と森中美树の《『红楼梦』の中の海棠-梦の世界に现実を见つめて咲いた花-》二つの论文で、『红楼梦』はよく花を用いて女性イメージを象徴したことを提出して、具体的に林黛玉や晴ブンという人物イメージを分析した.
1.2『源氏物语』の花についての研究
『源氏物语』に関して、国内では上げればきれないほど多い.1936年、周作人は『谈日本文化书』という文章の中で「源氏物语はまさに日本の红楼梦だ』と书いていて、始めて『源氏物语』を『日本の红楼梦』と呼んだ.二十世纪八十年代、豊子恺の『源氏物语』の中国语訳本が世に问いた後、中国の『源氏物语』についての研究が始まった.四川外国语学院の教授姚继中は着作の『「源氏物语」と中国文化』でそういう论点を提出した.『源氏物语』が日本伝统文化と文学に生じたものだが、それと同时に中国伝统文化の精华も入れて込んだという.そして东方文化を研究している専门家叶渭渠は『日本文学史』と『日本文明』で、『源氏物语』が体现してきた仏教観や自然観や审美観などと中国文化と文学との関系を述べた.そして、『源氏物语』と『红楼梦』を対比して、相违点と共通点を指摘した.また、国内で『源氏物语』の登场人物、たとえば源氏光や紫の上、玉鬘、末摘花、朝顔などについての论文と着作も多い.
日本では、芳贺矢一は彼の着书『国民性十论』と『日本人』でそう述べている.『源氏物语』であっても、その中から出た和歌であっても、花に好んで、よく花のことを描写して、人を花にたとえる.それは、稲作文化によって形成してきた日本人の新植物性という影响が文学に及んで、そういう文学伝统が定まったからである.そして、日本の学者青木登は『源氏物语の花』という作品で述べたように、「季节を彩る花、その移ろいの中に「源氏物语」の世界は展开された.全五十四帖に登场する花を各帖ごとに取り出し、その花を通して「源氏物语」の世界を旅する.」
1.3 研究の目的と意义
上述のように、国内外でも、たくさんの学者や研究者は『源氏物语』と『红楼梦』二つの作品において、多くの着书や论文を作り上げて、その二つの作品から表现してきた「美人を花に譬え」という描写についても研究した.しかし、その文学现象を二つの作品において比べて研究することはまだない.そして、大部分の研究者はただその现象の共通点を探し出して、共通点の里に隠していた相违点が见つからなっかた.私の论文の目的は例の比较をして、共通点と相违点を探し出し、それぞれの原因を见つかり、「美人を花に譬え」という描写を通して、中日文化と文学のそれぞれの特性を探求したい.それによって、中日の「花を美とする」という共同の审美観があるので、日本と中国の文化や文学の相互理解と交流を深める.
2 二名着から登场する美人を花に譬える例とその原因
2.1 美人を花に譬える例
上述のように、二つの小説も一人の男子をめぐって沢山の女性を描いたとか、共に国内でも世界でも大切な地位がもっているとか、いろいろな共通点をもっている.しかし、その二つの小説をよく読むと、ある共通点を出さなければならないと思われる.それは花のことである.それでは、『源氏物语』と『红楼梦』の中から出てきた女性を花に喩えた例を挙げてみよう.
まず、『源氏物语』から见てみよう.『日本文学事典』で述べたように、『源氏物语』という作品の中に、自然に関しての描写であろうと、人物に関しての呼称げあろうと、喩ときてもきれない関连をもっている.その通りで、『源氏物语』の女性例えば夕顔、常夏、末摘花など直接に植物の名称によって命名することは明らかである.
具体の例を见てみよう.紫の上は登场する时は三月の三十日だったので、京の桜はもう散っていたが、途中の花はまだ盛りのに気づいた.そして、後で登场する紫の上を桜に譬えた.[4]
源氏は六条の贵女を名花に、中将を朝顔に譬えた.また、末摘花を红花に譬えた.「高く长くて、先のほうが下に垂れた形のそこだけが赤かった.」という.それは彼女の鼻の姿である.赤いから、彼女を红花に譬えた.[6]
夕顔は源氏と出会ってから、夕顔に譬えた.また、「山がつの垣は荒るともをりをりに哀れはかけよ抚子の露」という诗で夕顔は自分の子供即ち玉鬘に可爱がる気持ちを表すために、玉鬘を抚子に譬えた.[7]
确かに日本学者青木登は『源氏物语の花』という作品で述べたように、「季节を彩る花、その移ろいの中に「源氏物语」の世界は展开された.全五十四帖に登场する花を各帖ごとに取り出し、その花を通して「源氏物语」の世界を旅する.」
そして、『红楼梦』を见てみよう.『红楼梦』で登场した女性は108余りに达したが、それぞれの性格でも容貌でも违って、よく後世の人々に感心させる.実は、『红楼梦』で、草花は场面に适応させるためだけではなく、黛玉の潇湘馆であっても、宝钗の蘅芜苑であっても、その名も主人の気质を引き立てたと言えよう.また、大観园の人々が集まって诗を作る「海棠诗社」も白い海棠によって出た名で、芒种の际、花神を祭るために、黛玉は後世の人々に机を叩いて絶賛させる「葬花词」を作った.
もっとも例と挙げられるべきなのは宝玉の诞生日に行った「行名花令」、巧みにそれぞれの女性を各自の気立て、风姿、性格、结末と适応する花に譬えた.
黛玉は芙蓉という签を引いて、签の上に「风露清愁」を书いて、傍らに「ほかの人よりずっと美しい女性はよくない结末にすむ.黛玉を芙蓉に譬えた.
宝钗は牡丹という签を引いて、签の上に「艶冠群芳」を书いて、傍らに「情けない人は彼女を见たら、心が揺れる[10]」という小さい字が书いてある.宝钗を牡丹に譬えた.
探春は杏の花という签を引いて、签の上に「謡池仙品」を书いて、傍らに「太阳に近い赤い杏は云の侧[11]」という小さい字をかいてある.探春を杏の花に譬えた.
麝月は头巾蔷薇という签を引いて、签の上に「诏华盛极」を书いて、傍らに「头巾蔷薇まだ咲かないとき、ほかの花は全部零れた.[12]」という小さい字を书いてある.彼女を头巾蔷薇に譬えた.
そのほかに、李纨を老梅に、湘云を海棠にたとえた.袭人を桃の花にたとえた.それは、たしかに『红楼梦』を研究する専门家の周汝昌は『红楼梦の芸术魅力』で述べたように、『红楼梦』は新しくて独特な『群花谱』と见なされる.
2.2 その原因
なぜ『源氏物语』も『红楼梦』も女性を花に譬えて、すなわち女性の美しさを花に托して表すのか?その原因は以下の二点を挙げられる.
第一は、花と二つの作品から登场する女性との繋がりである.どんな繋がりを持っているのか?まずは美しいことである.そして、悲剧になることである.
花というと、人々に美しさと甘い香りを感じさせる.花は植物界の精华で、古代から今まで人々の心の中で美の代名词とされる.花は美しい.花も女性も美しいからこそ、彼女らを花に譬えて表现する.しかし、どんなに美しい花であっても、いつか萎れる.そして、そのいつかは长年後の将来ではなく、まもなくの将来である.それからみると、二つの名着と花の特性との繋がりはいったいなんでしょう.
紫式部は『源氏物语』で主に源氏と女性との爱情生活を描写したのに见えるが、それは単纯的に爱情生活を描くことではなく、源氏の恋爱、婚姻を通して一夫多妻という制度に支配された女性たちの惨めな运命を明らかに示したためである.日本の歴史から见ると、平安时代の贵族社会では、男女の婚姻はよく政治上の利益に繋がって、政治闘争の一つの手段にされたことがよくわかる.紫の上は理想の爱情を手に入れないで苦しんで苦しんで死んでしまったこと、空蝉は自分の贞节を守るために、仏门に入って済んだことなど、いろいろある.紫の上など、どれも花でも耻しいほど美しい容貌をしていたが、死ぬまでも不合理の婚姻制度に苦しめて、惨めな结末に陥った.だから、『源氏物语』は女性の悲剧と言えよう.
こういう点では、『红楼梦』もそういう共通点を持っている.十八世纪の封建社会の末期、伪りの封建礼教と女性に求められた封建的な基准道徳――三従と四徳の圧迫下、纯洁な心と爱情、花も耻ずかしいほど美貌をもっている少女たちが惨めな运命から逃されない.花と名着から出た女性たちは、同様に美しくて、最後に悲剧になってしまった.紫式部と曹雪芹はそういう点を见て、女性を花に譬えた.花のように美しい女性たちは花のように萎れて悲剧になってしまった运命から逃されないことを表现したがると思う.
第二、中日文化伝统の共通点はもう一つの原因である.中国では、花文化は古代から今まで続いてくる.花に関しての记载は、中国の商の时代の甲骨文に现れた.戦国时代、孔子は「兰は花王にあたり」と言った.隋唐宋时代、中国の花文化は非常に盛んになって、花に関する文学作品もいっぱいであった今になって、多くの中国人が花を育てることも、花で部屋を饰ることも、中国の花文化はもっと盛んになって、もう生活の各方面に染み込んだ证拠である.
それでは、日本のほうへ见よう.「日本文化の形态は植物の美学に支えられてきた.日本人にとって言えば、自然は神様である.生活には自然という神様がなくては、生活にならない.さらに言えば、日本の歴史もないという.」ある日本学者はそう述べた.もちろん、木は古代ではもっとも体表的な物象で、古代の日本人の自然観の基础にされた.しかし、木と花は切ても切れない関系をもっている.相当の植物にとっては、その植物は木だけではなく、花である.そして、花は元来大自然の中で不可欠の部分である.日本人にとって、花?书?茶は「日本伝统美の三重奏」といわれる.平安时代まで长い间日本人の心に根差した日本人の原始的な自然観そこから生まれた审美観から见れば、花も日本人にとって一つの伝统美であると言えよう.
要するに、花は中国人にとっても、日本人にとっても、ひとつの伝统美である.それは、中日伝统文化が花に対しての共通点である.
3 二名着における美人を花に譬える例の相违点とその原因
3.1 相违点
第二章に述べたように、『源氏物语』と『红楼梦』を対照して见れば、二つの名着とも花に托して女性形象を描写した.それは共通点である.しかし、人は共通点を探し出すだけに満足すべきではなく、共通点の里に隠していた相违点を発现すべきである.なぜかというと、相违点を通してこそ、中日间の文学と文化の违いを発现できる.
その一、『源氏物语』は女性を花に譬えた场合、ある花を见つけて、後で登场する女性をその花に譬えた.あるいは、その女性の姿によってそれと相応する花を选んでその花に譬えて、女性の名も花の名で命名したまでである.すなわち、作者は女性を花に譬えた目标は女性の姿を强调しようである.それにたいして、『红楼梦』はひとつの女性に対応する花を选択する时、重点は女性の姿に置いたのではなく、女性の性格、気质、运命に置いた.言い换えれば、强调する対象は违っている.
それでは、その现象の例を见てみよう.紫の上は登场する时、源氏は下痢にかかって、北山の某という寺へいこうとして、これは三月の三十日だったので、京の桜はもう散っていたが、途中の花はまだ盛りのに気づいた.そして、後で登场する紫の上を桜に譬えた.
源氏は「咲く花に移るてふ名はつつめども折らで过ぎうき今朝の朝顔.どうすればいい」を言った时、六条の贵女を名花に、中将を朝顔に譬えた.
『红楼梦』で、曹雪芹は黛玉を芙蓉に譬えた.芙蓉は古代から中国の人々にほかの花と比べると比べられない纯洁美をもっている.それは视覚上のイメージである.品质上では、身を清く保ち、悪に染まらないということである.また、中国人は美人を形容する时、よく「出水芙蓉」という言叶をよく使う.要するに、芙蓉は中国人の人々の心の中でもっともいい评判のある花だといえよう.黛玉は芙蓉のような身を清く保ち、悪に染まらないという品质を持っている.
そして、黛玉の性格は人に与えた印象も芙蓉とは同じであることといえよう.それに、名利と地位に屈服しない点では、宝玉と黛玉は一致している.彼らはお互いに相手をその世で唯一の知己として大切にしている.だから、宝玉と黛玉の爱情悲剧はさらに読者の同情と残念の気持ちを博した.
以上の分析によって、『红楼梦』で比喩の重点は人物の性格と気质に置くのは明らかであろう.
その二、『源氏物语』という名着で一つの女性に対応する花は唯一ではなく、よく登场人物の当时の感情を述べるために、対応する花を変える.それに対して、『红楼梦』は人物の独特な気立てを表现し、结末を暗示するために、一つの女性は唯一の花に対応し、自分胜手に対応する花を変えない.例えば、第二回「帚木」で头中将は自分のせいで夕顔に离れられてから、彼女に対する懐かしい気持を述べるために、夕顔を常夏に譬えた.しかし、夕顔は源氏と出会ってから、夕顔に譬えた.
『源氏物语』に対して、『红楼梦』の场合はそうではない.『红楼梦』で宝钗を牡丹に、探春を杏の花に譬えた.李纨を老梅に、湘云を海棠に譬えた.麝月を头巾蔷薇に、黛玉を芙蓉に譬えた.それは周汝昌は『红楼梦の芸术魅力』で述べたように、「『红楼梦』では、それぞれの女性を各自の気立て、风姿、性格、结末と适応する花に譬えた」.宝钗はだれも比べられない美貌をもって、度胸があり、いつでも道理が通じる.それは牡丹が中国人に与える印象とよくにている.「黛玉は美しくて、とても単纯で、素直で、何が言いようならすぐ言う.そして、彼女は宝玉と同じように、権势に屈服しなくて、権势も追及しない.それは、彼女のいった社会背景下では、かなり珍しい.これは、周敦颐の芙蓉を讃美する诗句「出淤泥而不染」と同じで、彼女を芙蓉に譬えた.また、『红楼梦』では、一つの女性は唯一の花に対応し、自分胜手に対応する花を変えない.
3.2 その原因
相违点のある一つの原因は日本の持つ亲植物性である.それはなぜ「女性を花に譬え」という现象で『源氏物语』は女性の姿を强调しているという问题を答えられる.稲作の栽培は、また日本人の植物に対する特别な感情を育てた.それは日本人の亲植物性である.
日本人は植物に対してほかの国の人より特别な感情を持っている.亲植物性があって、どんなに狭い庭であっても菊、桜や松などの植物を栽培し、植物に出会うとかわいいなあ、きれいだなと思い、好きな気持ちは抑えきれないほどである.だから、日本人は文学作品でも、登场人物が自分の好きな女性と出会ったら、「その女性はなんとお美しい、姿も美しくて、なんか花のように美しい」と思う倾向がある.
『源氏物语』で源氏がもっとも好きな女性、紫の上で证明しよう.紫式部は『源氏物语』で紫の上を二回桜に譬えた.まずは、紫の上の出场である.源氏は北山の某という寺へいこうとした.これは三月の三十日だったので、京の桜はもう散っていたが、途中の花はまだ盛りのに気づいた.そして、间もなく彼はまだ若い紫の上を见て、自分の女にしようと思った.ここで、彼は紫の上を山桜に譬えて、彼女に対しての好きになった気持ちを表した.
もう一つの原因は日本文学の主情性である.主情性はなぜ『源氏物语』という名着で一つの女性に対応する花は唯一ではなく、対応する花を変えるという问题を答えられる.日本人は自分の感情を第一にしているので、どんな场合でも自分の気持ちを述べるために、物体に托して具体的に表现する.
すなわち、日本人は志より、自分の感情あるいは気持をもっと大切にしている.だから、『源氏物语』で源氏であっても、夕雾であっても、よく自分の目の前の花を折って、手纸と伴って女性の方へ送り、よく後で出会う女性を当时自分が见た花に譬えてその女性の美しさを感心する.
日本文学の亲植物性と主情性によって、比喩の重点を女性の姿に置いて、譬とする対象もよく変える.しかし、『红楼梦』の场合で比喩の重点を外観上に置くではなく、品质上に置いたと思う.それは中国と日本が花文化に対しての违いによって、その结果がある.我が国の花文化の精粋は中国语で言えば「花韵」である.花韵というのは、ある花の风采、品格と特性である.それは外観のものではなく、内在のものである.
中国人は花の姿より、花の「花韵」をもっと大切にしていることが明らかである.ですから、女性を花に譬える场合、重点を女性の姿に置くではなく、彼女らの风采、品格と気质に置いた.したがって、『红楼梦』で、ひとつの女性に対応する花は唯一で、そして、花と女性との性格や気质上の共通点を通して、比喩を象徴に昇华された.
要するに、その违いのある原因は日本人の亲植物と文学上の主情性と中日花文化の违いである.
おわりに
中国の文学作品であろうと、日本の文学作品であろうと、「美人を名花に譬え」という现象はよくみられる.确かに、花と女性は违う分野での美の化身で、「美」は花と女性の共通点である.
论文は『源氏物语』と『红楼梦』における「女性を花に譬え」という现象について研究した.第二部分が二つの作品のあらすじと评価と地位を绍介した.第三部分は二つの作品の女性を花に譬える例をどんどん探して挙げて、なぜ二つの作品も女性を花に譬える理由は中日文化は花に対する共通点と花と二つの作品から登场する女性との繋がりである.もっとも大切なのは第四部分で、例の対比を通して、违いを探して述べた.それは、次のものである.女性を花に譬える场合、『源氏物语』は一つの女性に対応する花は唯一ではなく、よく登场人物の当时の感情を述べるために、対応する花を変える.それに対して、『红楼梦』は人物の独特な気立てを表现し、结末を暗示するために、一つの女性は唯一の花に対応し、自分胜手に対応する花を変えない.そして、『红楼梦』は女性の性格と気质を重视しているが、『源氏物语』は重点を女性の姿に置いた.最後に、要するに、その违いのある原因は日本人の亲植物性と文学上の主情性と中日花文化の违いであることを论じた.
本论は一つの方面から中日文学の异同を论じる.しかし、もっとよく中日の比较文学を理解したいなら、もっと多くの作品とほかの方面から探さなければならない.それゆえ、これを今後の课题に残してにしたい.
参考文献
[1] 青木登.源氏物语の花〔M〕.东京都:けやき出版.2004.
[2] 伊藤漱平.『红楼梦』いおける象徴としての芙蓉と莲と―林黛玉、晴ブン并びに香菱の场合〔J〕.东京都:平凡社.2001.P46
[3] 大森和夫.日本〔M〕.外语教学与研究出版社.2005
[4]小田切进 监修.ポケット日本名作事典〔M〕.东京都:平凡社.1981
[5] 芳贺矢一着.国民性十论〔J〕.东京都:平凡社. 2003.P24
[6] 森中美树.『红楼梦』の中の海棠-梦の世界に现実を见つめて咲いた花-〔J〕冈村贞雄博士古稀记念中国学论集白帝社.1999. P125
[7] 芝木好子.日本の伝统美を访ねて〔M〕.东京都:河出书房新社.1985
[8] 紫式部着.源氏物语〔M〕新潮社出版社.1967
[9] 佐佐木瑞枝.日本世情〔M〕.外语教学与研究出版社.2005
[10] 邸瑞平.王士超.宋德胤.潘宝明 .『红楼梦大観』〔M〕.内蒙古人民出社,2006
[11] 韩立红.日本文化概论〔M〕.南开大学出版社,2006
[12] 紫式部着.与谢野晶子訳源氏物语〔M〕.青空文库第五回.2002
[13] 何小颜.花与中国文化〔M〕.北京:人民出版社,1999
[14] 叶渭渠.日本文学史〔M〕.北京:昆仑出版社,2004
[15] 周汝昌着.红楼の芸术魅力〔M〕.北京:作家出版社,2006
[16] 周思源.论红楼梦的艺术魅力〔M〕.北京:中国社会科学出版社,2000
[17] 周作人.谈日本文化〔M〕.北京:人民文学出版社,1980
谢辞
二○一一年十月、研究テーマ『中日「美人を名花に譬える」现象における一考察――『源氏物语』と『红楼梦』を中心に』を决めてから、これをめぐって、书き始めました.论文を书くうちに、指导教官をはじめ、各先生のご支持とご援助を受けさせていただきました.ここで心から先生方に感谢いたします.クラスメートの皆様も拙论の书くに、协力をくれました.クラスメートの皆様にも心から感谢します.先生方の、友达の助けがなければ、拙论はうまく书けなかったのです.
拙论を书くとき、参考した先行研究の作者に感谢いたします.彼らの研究成果がありますから、初めて拙论があるのです.答弁委员会の皆様にご意见いただきましたことを感谢いたします.